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開山

不動密寺

不動密寺

修験道僧・浄定

泰澄大師は飛鳥時代(7世紀末)、越前国麻生津(現在・福井市三十八社町 泰澄寺)に生まれました。
神の子(神童)と言われた大師は11才の時、夢のお告げで越知山大谷寺に入寺、苦行難行の末、ついに悟りを得たといいます。
泰澄大師の名声は都まで轟き、21歳の時、帝は鎮護国家法師に任じました。
 
その後、36才の時、2人の弟子、臥(ふせり)行者・浄定(きよさだ)行者と共に霊峰白山を開いたとされています。後に臥(ふせり)は白山より西に布教活動し、浄定(きよさだ)は白山より東に布教活動を始めました。

養老7年(722年)、元正天皇のご病気を加持祈祷によって治癒したことにより、帝より神融禅師の号を賜わりました。

神亀2年(724年)、行基が白山を訪ね本地垂迹の由来を問うたことより神仏習合の教えの祖と呼ばれています。

天平2年(730年)、一切経を写経し法隆寺に納めました。これは、宮内庁図書寮に現存しています。
 
天平8年(736年)、入唐帰朝の玄昉より特に十一面経を授受され白山信仰の本地仏を学びました。
 
天平9年(737年)、全国に疱瘡が流行し、勅名により祈願を行い疫病を収束させました。このとき、三角から大和尚位を授けられ、「泰澄」の尊称を賜わりました。

先に触れています、浄定(きよさだ)は東に布教活動を始め養老2年に信濃国四阿山に登り白山信仰の根源・白山比咩大神(=菊理媛尊)を四阿山山頂に祀り北信濃における白山信仰が始まります。南側にある上田市真田町の山家神社が里宮になっていますので、古来上田方面より米子大瀑布の麓ににある、白山大権現社に参拝し滝で禊をして身を清め四阿山に登ったと考えられます。鎌倉幕府が編纂した延喜式神名帳に記載されている事、真田の庄に根付いた真田弾正忠幸隆公の長子・真田源太左衛門尉信綱公が当寺奥之院にある白山・四阿山大権現社の祭司を務めた事から、古来より中央政権の知る霊場であった事が伺えます。

高僧・行基菩薩

行基(ぎょうき/ぎょうぎ)は天智天皇7年(668年) - 天平21年2月2日(749年2月23日)の飛鳥時代から奈良時代にかけて活躍した僧です。国家機関と朝廷が寺や僧の行動を規定し、民衆へ仏教を直接布教することを禁止していた当時、その禁を破って行基は布教集団を結成し、畿内(近畿)を中心に民衆や国衆など身分を問わず民間布教に努め、また、困窮者に布施屋9ヶ所、布教所や寺院を49寺院、稲作の為の池15窪、洪水を防ぐ為の堀・飲料水の為の溝9筋、要の橋6所、等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。当初、朝廷から度々弾圧や禁圧を受けましたが、民衆の圧倒的な支持を得て、その力を結集し逆境を跳ね返しました。その後、大僧正(当時僧侶の最高位大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられています。
当寺を開山した高僧・行基は信濃国稲向郷の大滝(現在・米子大瀑布)に大日如来を刻み本尊とし、白山・四阿山大権現社の本地仏十一面観世音菩薩を脇仏に迎え大滝(現在・米子大瀑布)の麓に堂一宇を建立し龍澤山川原院如来寺と称しました。以降北は北海道・南は肥後国(熊本県)にまでに及ぶ信者さんがおり全国に知られた、山岳信仰と仏教の天空の聖地となりました。