歴史
米子大瀑布
米子大瀑布
関東管領・上杉謙信公
上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代に越後国(現在の新潟県)などを支配した大名。関東管領(1561年 - 1578年)。山内上杉家16代当主。越後を統一し、関東や北信地方、北陸地方(越中国以西)に度々出兵しました。戦国時代でも屈指の戦上手とされ、その神懸った戦術から後世、軍神や、「越後の龍」などと称されました。
永禄4年(西暦1561年)川中島第4次合戦の際に謙信公自ら(現在・当寺本尊不動明王)を祀り戦勝祈願をしたと言い伝えられ、軍の士気を高めたと言われています。
合戦の帰途の折、謙信道が存在し途中にあった龍澤山川原院如来寺(現在・当寺奥之院本堂)に不動明王を本尊として安置し関東庶民の安寧を祈願し関東勢に睨みを効かせました。謙信公より米子瀧山威徳院不動寺と改名し現在に至っております。
実は現在の新潟県上越市滝寺地区に不動空堂(滝寺不動)が現存しており何故か滝(3m)もあります。当寺とは深い縁が感じられる場所で、謙信公が祈願した毘沙門天もすぐ側に祀られています。地元の方々には「昔謙信公の念持仏のお不動さまが居られたが、川中島の合戦以来お戻りにならなかったそうな」と言い伝わっています。
謙信公と言えば毘沙門天王ですが、自身は毘沙門天王の生まれ変わりと言っており、当寺本尊不動明王と謙信公の結縁の謂れは、戦国大名としては謙信公が唯一、上洛の際、京都御所に上り、帝に謁見して関東管領職の御礼を申し上げております。また室町幕府からは、第13代征夷大将軍・左大臣足利義輝公・足利宗家第20代当主より足利宗家で念じて護っていた、護持仏の不動明王を賜りました。その不動明王こそが当寺本尊不動明王なのです。
血筋・真田一族
鎌倉時代に編纂されました吾妻鏡の中に当寺開山地奥之院の記載があります。養老二年(西暦七一八年)泰澄大師の一番弟子・浄定により白山大権現と四阿山大権現とを合祀して滝の麓に四阿山北側の里宮として白山大権現・四阿山大権現合祀社殿(清めの大神さま)=本地仏十一面観世音観世音菩薩が安置されました。これが当寺の原点であり、後に高僧・行基が訪れる理由になった天空の聖地です。戦国時代、一国衆(豪族)に過ぎなかった真田一族も心の原点は白山大権現であった事はご存知でしたか?
真田一族は、四阿山(白山大権現)を守護神として崇めていました。武田大膳太夫信玄公より私の眼とまで評された真田安房守昌幸、その兄、真田源太左衛門尉信綱は当寺奥之院の礎(白山大権現・四阿山大権現)北側社の祭司を務めていました。昌幸の戦い方は正に武田大膳太夫信玄公の生き写しであった様で、将軍徳川家康、その子秀忠を二度にわたって上田城の合戦で打ち負かしました。戦略と知略に長けた真田一族、特に真田左衛門佐信繁(幸村)は「真田日本一の兵」と細川忠興公、上杉景勝公、島津義弘公、伊達政宗公より評されました。
実は、昌幸の長男真田伊豆守信之(信幸)そして二男真田左衛門佐信繁(幸村)、その血が今の名誉住職とその妻に流れているのです。数百年を経てこの不動寺に犬伏の別れより離れていた兄弟の絆(血筋)が結集致しました。ですから紋の一つは血筋である真田六文銭(六連銭)の家紋なのです。
何故、当寺には上杉家の家紋(上杉笹)・真田家の家紋(真田六文銭)が幕にあるのか?真田は武田側ではないのか?
それは本尊不動明王が上杉謙信公の念持仏。真田家の子孫である名誉住職(信繁=幸村の子孫)、妻は(信之=信幸の子孫)なので上杉家の紋と真田家の紋を掲げております。
家訓 『生に固執せよ・死ぬまで生きよ』